パートナーの不倫を経験すると、色々なものを曝きたくなる心理が働く。
相手とはもう別れたというパートナーに対して、そのことが本当なのかどうかを突如として知りたくなり、メールをチェックしてみたり、カバンの中を調べてみたり…
そんな衝動に駆られることがあると思います。
調べている最中は、「安心したい」という思いに駆られ、
「安心したいから、何もないことを知りたいのだ」と思うのですね。
ところが、この衝動の不思議なところは、何も出てこなかった。ああ、よかった!
とはならないところにあります。
パートナーが巧妙に私に発見されないような所に、嘘を隠したのだ。
と心のどこかで思ってしまったりするのです。
そして更に、どこかに隠してあるだろう場所を他に求めて探そうとしてしまうのです。
これではまるで、「嘘を発見したがっている」ようなもの。
いつのまにか本来の目的「安心したい」が「嘘を発見したい」に変わってしまっているのですね。
このように変わってしまう心理として、裏切られた辛い記憶が、もう騙されたくないという強い思いと結びつき、騙されないことが、心が傷つかないことだと思ってしまうのですね。
それはさておき、もし嘘があったとしても夫婦関係を修復すると約束をしているとするのなら、パートナーは夫婦を続けていくという「公言」(その場限りの言い逃れだとしても)の手前、家庭を維持し、もう嘘はないという態度を取り、何とか夫婦という形を維持しようと努力をしているわけです。
(実際には嘘がバレないように画策していたとしても、バレないようにするということは、現状を維持しようとする姿勢の表れだからです)
現実生活は持続されているわけだから、自分の預かり知らぬ所で、パートナーが裏切っていようがいまいが、実生活にはあまり関係ないのではないか。という考え方も出来るわけですね。
にもかかわらず、やっぱり嘘があってはイヤだ。と多くの方が思うと思います。
それはなぜか・・・・?
真実は現実であり、偽りは非現実であるから
非現実とは、妄想、想像の類と変わらず、お芝居のように、いつかは幕が閉じるものと本能的に知っている。私たちの深層心理では、どうやらこういう感覚が働いているようです。
傷ついた心は、安心、安全を求めます。
だから、ついつい未来永劫の安心、安全を求めてしまう。
それが約束されると気持ちが落ち着くような気がするのです。
だから、もう嘘はないかと家捜ししたくなるのですね。
家捜ししたくなる衝動は、これは本能的なものです。
だから居ても立っても居られないような気分になって家捜ししてしまい、そんな自分の行為に後でひどく落ち込んでしまうということがありますが、そんな衝動に駆られたからといって、自分を責める必要はないと思います。
ですが、それを続けるとどんな弊害が生じるかは、考えておくべきだと私は思います。
相手と本当に仲良くなりたいのであれば、どうすればよいのかということは、
本能とは別の所にあると思います。
いずれを選択するのかで、その後の夫婦の進む道が自ずと変わっていくのは、
自明であると言わねばならないでしょう。