人は喪失するということとは無関係に生きられない。
誰しも生きている以上は何らかの喪失を経験する。
パートナーの不倫も、喪失体験の一つといえる。
しっかりと結ばれていると思っていた関係性の喪失。
安全に憩えると思っていた家庭の喪失。
場合によっては収入の喪失など。
その悲しみは計り知れないほど大きい。
だが、パートナーの不倫を知った後の人の行動は様々だ。
ある人は悲しみから鬱状態になり、気力も湧かず放心状態になって、生きているのか死んでいるのかもわからないような状態が続く人も居れば、怒髪天を突くが如く怒りをぶちまける人も居る。
行動的に見ればまったく真逆のようであるが、その深層心理は同じ所に端を発している。
どちらの場合も、不安と恐怖に心が鷲づかみにされている状態なのだ。
出てくる態度の違いは、その人がどんな人生体験をし、行動を取り込んできたのかによっての違いだと思う。
さて人は喪失を体験したときに、どんな経緯を辿るのだろうか。
最初はショックを感じる。
と同時に、心のメカニズムとしては、心が壊れないように感じる事をシャットアウトする。
これによって、思ったほどショックを受けていないように感じたり、妙に前向きに考えられたりするのだ。
ところが、その閉じられた扉は、その後1週間ほど掛けて、徐々に開いていくことになる。
悲しみが心を浸食していくように感じたり、心が壊れていくように感じたり、人によってはその表現は様々だろうが、受けたショックが現実の物であると認識していく時間でもあると思う。
そして悲嘆の時間が始まり出すのだ。
パートナーの裏切りを嘆き、悲しみ、否認する。
そんなことが心の中で繰り返されていく。
喪失の体験の過程の中で一番辛いときではないかと思う。
そして、ここで現実を否認し続けていると、この時間が長く続くことになる。
否認とは…・
これは夢ではないか?
明日目が覚めたら、元通りの生活があるのではないか?
あるいは、過去に戻りたい。過去は良かった。と過去ばかりを見つめる。
いずれにしても「今」を見つめず、起きたことを「現実のもの」として受け入れることが出来ない心の状態である。
どの人もこの状態を必ず通っていく。
この心の状態を通過しないでは、次には進めないように心のシステムは出来上がっているからだ。
だが、ここで立ち止まる人と、さっさと通過していく人の違いがある。
現実認識の出来ない人は、心が次の状態へと進まないで、何時までもこの時点に留まり、嘆き、悲しみ、苦しみ続けることになる。
その違いは何か?と一言でいうと、
その人の生きて体験してきた経験の違いがあげられる。
それは資質、性格、環境、考え方、思考の方向性などが考えられるが、
それ以外の大きな要素は、「どれだけ嘆き悲しめたか」ということが関係してくるのではないかと思う。
悲しむことを我慢したり、自分に禁じたりすることは、現実を否認することと同義語ではないだろうか。
悲哀に満ちているのに、こんなことで悲しんじゃいけないとか泣いてはいけないと思うことは、自分の素直な悲しみの感情を抹殺していることに他ならない。
また人は、心の中にある思いは、口に出したり書いたりと、表現してこそ姿がハッキリするものなのだ。
それによって、自分がもう一度その感覚を経験し、眺め、考える事が出来るのだ。
この過程を辿らなければ、人は次に進めない。
悲しい事を悲しいと、心ゆくまで悲しんだとき、神の啓示のように心の中に次の言葉が聞こえて来る。
自分のやるべき事。
進みたい方向。
欲しいもの。
そんなものがハッキリしてくる。
そうすると、人は次の段階へと進んでいくのだと思う。
嘆くこと。悲しむこと。
それは自分の人生を大きく切り開いていくのに必要な偉大な一歩なのだと思う